日本宗教学会第75回年次大会において、特別パネル「宗教研究と地球環境問題―国際グローバル理解年のために―」を本諸学会連合が共催しました(9月10日、早稲田大学戸山キャンパスにて)。
木村 武史(筑波大学/日本宗教学国際委員会委員長) 司会
岡田真美子(日本学術会議会員/日本宗教研究諸学会連合運営委員) 趣旨説明
カール・ベッカー(京都大学) 「宗教研究から見えてくる宗教と地球環境問題」
サラ・フレデリクス(シカゴ大学) 「環境問題に抱く恥の感情への宗教的応答について」
馬場 紀寿 (東京大学) 「仏教と環境運動」
土屋 昌明 (専修大学) 「道教にみる人と自然の関わり―洞天思想を中心に―」
小原 克博 (同志社大学) コメント
ご協力いただいた諸学会、パネリスト諸氏、ご参加くださった皆さまに御礼を申しあげます。
発表・コメントの要旨集をここに掲載します。
このパネルには、シカゴ大学から環境宗教学を専門とするサラ・フレデリクス氏を招聘し、本諸学会連合の運営委員からパネリストをご推薦いただき、日本宗教学会国際委員会から企画運営にご協力を賜りました。
発案のきっかけとなった国際グローバル理解年(国際地球理解年、IYGU)については、要旨集の岡田真美子氏による趣旨説明、ならびに先の投稿記事をご覧ください。
多様な諸学会のご協力により実現したこのパネルは、環境問題に関する宗教研究の現状を集約したと言いうるものでした。実践的な神学者や研究者は、伝統的宗教思想を現代の文脈で再解釈し、地球環境問題の解決のために適用しようとします(キリスト教神学の小原氏、仏教・スピリチュアル研究のベッカー氏)。それに対し、文献学的方法を旨とする研究者は、歴史的文献(聖典)に現代的な環境倫理を読み込むよりも、むしろ両者の相違点に気づかせることを重視します(仏教研究の馬場氏、道教研究の土屋氏)。
この違いは、宗教研究の課題についての認識にも表れています。前者の場合は、なんらかの宗教的理念の世界的な共有により、環境問題を克服していくことが目ざされます。後者の場合は、現代的発想とは異なるにもかかわらず、過去の宗教思想が現代の環境保全にプラスの効果をもたらしている具体例を示したり(土屋氏)、あるいは、宗教者や宗教研究者の役割を、理念の思想的根拠づけよりも、地域にねざしたネットワークを利用して環境運動を起こすところに見出したり(馬場氏)ということになります。(両者を組み合わせたパターンも存在します。)
アメリカでの研究と実践に詳しいフレデリクス氏は、価値や理念の共有は重要だが、研究者は地域住民にそれを押しつけるのではなく、サポート役であるべきだとします。また、「環境は大事だ」という価値を持つだけでは、保全の行動を起こすまでには必ずしも至らないため、「恥」「罪」という道徳的感情と儀礼の役割が学界でも運動の現場でも注目されていると言います。氏によれば、省エネのために階段を使う人がいるのに自分はエレベーターについ乗ってしまうのを「恥」と感じるのは、環境問題を意識する第一歩ですが、それだけでは自分を否定するだけです。これをたとえば「人間のせいで温暖化が進み白クマたちが被害を受けている」といった「罪」の感情に昇華すると、行動への動機につながります。このとき、儀礼は、「罪」を自覚する人間と自然環境の関係を「修復restoration」するために有効であると言います。それには伝統的な宗教儀礼が用いられることも、新たな儀礼が創出されることもあるそうです。
フレデリクス氏のこの議論は、日本の状況と比較するならばいっそう興味深いものです。日本の「宗教の社会貢献活動」という文脈でしばしば言及される儀礼は、馬場氏が指摘する、寺社を拠点としたネットワークを活性化するための「祭り」です。フレデリクス氏のいう修復の儀礼は、カトリックの告解、プロテスタントの回心体験談の共有、現代のスピリチュアルな自助グループの集会に近いものです。環境保全のために用いる方法が、これほどまでにそれぞれの文化の宗教伝統に直結しているというのは示唆的です。また、フレデリクス氏の「恥」「罪」の概念に対応する、日本の環境運動のキーワードで著名なものは「もったいない」でしょう。氏の「恥」「罪」論に比較すれば、「もったいない」は行動に直結する気もちであるという特徴を持っています。
ここには、日本は恥の文化で、欧米はキリスト教の罪の文化だ、というかつての日本文化論とは異なる、全く新たな比較と対話の可能性が存在しています。