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特別パネル「宗教研究の振興と学会・学会連合の役割――学術会議との対話」開催報告

特別パネル「宗教研究の振興と学会・学会連合の役割――学術会議との対話」開催報告

日本宗教学会年次大会中、9月9日(日)に本諸学会連合共催パネルを開催いたしました。

御礼を申し上げますとともに、当日の発表・コメントのダイジェスト版(レジュメ)をここに掲載します(発表タイトルをクリックしていただくとpdfファイルが現れます)。

パネルの主旨とまとめ

内容:
挨拶 岡田 真水(日本宗教研究諸学会連合副委員長・日本学術会議哲学委員会幹事)

発表① 藤原 聖子(日本宗教研究諸学会連合幹事・日本学術会議第一部副部長・東京大学教授)
「宗教学会の状況―他分野学会と比較して―」

発表② 斎藤 明(日本印度学仏教学会元理事長・国際仏教学大学院大学教授)
「インド学仏教学は『社会的要請』にいかに応えるのか」

発表③ 土井 健司(日本宗教研究諸学会連合幹事・日本基督教学会専務理事・関西学院大学教授)
「神学・キリスト教学の現状と将来にむけて」

発表④ 土屋 昌明(日本道教学会理事・専修大学教授)
「日本における道教研究の有効性について」

コメンテータ 井野瀬 久美恵(日本学術会議第23期副会長・甲南大学教授)
コメント要旨

 

日本宗教研究諸学会連合企画 懇談会
日本宗教学会男女共同参画若手支援ワーキンググループ
人文・社会科学系学協会男女共同参画推進連絡会(ギース)
去る9月9日(日)、日本宗教学会第77回学術大会(大谷大学)において、本連合共催パネル「宗教研究の振興と学会・学会連合の役割―学術会議との対話―」に続き、人文・社会科学系学協会男女共同参画推進連絡会(ギース)委員長 井野瀬久美恵先生と、日本宗教学会男女共同参画若手支援ワーキンググループのメンバー、日本宗教学会 山中弘会長との懇談会を開催しました。

本連合副委員長 岡田真水先生による挨拶の後、井野瀬先生によるギースの設立目的と活動内容の説明、ワーキンググループの井上まどか委員による報告、ディスカッションが順に行われました。司会は西村明ワーキンググループ委員長が務めました。

井野瀬ギース委員長からの説明
ギース設立の経緯:
昨年5月に発足し、当初加盟学会は4学会だったが、現在は57学会にまで増えた。母体は日本学術会議第一部附置総合ジェンダー分科会である。同分科会と共催でキックオフ・シンポジウムを今年3月に開催した(今後、シンポジウムは定例化し、毎年2~3月に開催する予定)。来る9月28日には第一回の総会を行う。
ギースの活動目標:
いずれの各学会も、意思決定のプロセスに女性会員が少ない点で共通している。そのことが何につながるのかも、これまでほとんど議論されてこなかった。海外ではアファーマティヴ・アクション的なジェンダー平等が当然視されているが、日本ではジェンダー平等の実現度が大学や学会の評価対象になるという「外圧」によって、無理やり取り組まなければならないという感じを持っている人が少なくないかもしれない。しかしながら、実は、学問の質とジェンダー平等は密接に結びついており、この認識がギースの根底にある。
「アンコンシャス・バイアスunconscious bias」という言葉をよく耳にするようになった。知られている事例では、オーケストラ団員の採用にブラインド・オーディションを採用したところ、女性の割合が5~10%から25~46%に上がったことがある。つまり、それまでは女性に対する偏見のため、演奏の質を落としていたことになる。学会誌の査読もダブルブラインドにすると女性の投稿論文の採択率が上がることがさまざまな分野で立証されている。各学協会がそれぞれの学問の質を上げるためにジェンダー平等がいかに必要かという認識を広めることを目ざし、ギースが立ち上がった。さらに、ジェンダー平等の推進を糸口にしながらも、何かあったときに人文社会科学系の学協会が全体で団結する基盤になれればという未来展望もある。

ギース活動内容:
① 基礎データ集めとしての大規模アンケートの実施
データをとるのも、基本的に学問の質がジェンダー平等を必要としているからである。理系の連絡会(男女共同参画学協会連絡会)は2002年に立ち上がり、3~4年に1度アンケート調査を行い、理系学問の世界でジェンダー平等がどのように実現されているか・いないのか、あるいはされたとしたら、それ以外にどのような新しい課題が出たのかなどを数値化している。人文社会科学系はデータがほとんどないため、自分たちを相対化しようにもできない状況にある。若手、女性、LGBTを学会に含めることと学問の質がどう関わるのか、それをデータで示したい。それがないと、日本に未来はないと考える。
② 男女共同参画のためのGood Practiceの共有
シンポジウムや会合、HP等で加盟学会のGood Practiceを順に紹介していくので、それを自分の学会で何ができるかを考えるときの参考に、ツールとして使っていただければと思う。
③ アウトリーチ活動
この懇談会のように、各学会の大会に出向き、その学会の委員等と会合をもったり、ジェンダーをテーマとするシンポジウムに参加・共催したりする。日本哲学会が昨年5月に、学会史上はじめてジェンダーをテーマに掲げるワークショップを行い、それにもギース側から参加した。他の学協会がジェンダーあるいはジェンダー平等というテーマとどう取り組んでいるのか、女性を増やすことが、どう学問の質と関わっているのか、そして若手を増やすことがいかに重要かをわかっていただくため、アウトリーチ活動を行っている。
④ 理系の連絡会との連携
ギースに加盟している学会には、文・理という点では中間的な学会がいくつもある。科学技術社会論学会、科学基礎論学会、日本助産学会などはその好例である。こういった学会が加盟していることをギースの強みとして生かしていきたい。
理系の連絡会に理工系、自然科学系すべての学協会、分野が入っているわけではない。横の連携をこちらからプッシュする形で、日本の学協会全体のジェンダー平等を考えていければと思っている。
井上WG委員からの報告
・日本宗教学会 2018年9月現在の男女共同参画状況は以下の通り。
全会員における女性の比率 20.1%
役員における女性の比率 12.1%
全会員における上級職の割合 男性33.0% 女性5.2%
・2019年度『宗教研究』特集号のテーマとして「ジェンダーとセクシュアリティ」が選ばれた
意見交換
川橋WG委員:宗教研究分野の他学会で10年ほど前に女性委員が学会にジェンダー平等をとり入れることを提案したところ、学問とは相いれないものであるという反応が多数あり、実現しなかった。このワーキンググループの立ち上がりは隔世の感がある。
宗教学会の特殊性は後ろに教団が控えていることである。宗教学会で取り組むべき課題は、ジェンダーの視点をもつ宗教研究が、日本の宗教研究の質をどう変えていけるかということと、ジェンダーの視点をもつ宗教研究が、教団の男性中心主義的な意識をどう変えていけるかということが両輪になっていないと上手く行かないのではないかと思う。女性の役員を増やすことが大事だが、とくにジェンダーやフェミニズムの視点をもった女性を増やすべきである。
女性のキャリアパスを作る際のジェンダーバイヤスという問題についても本気で取り組むべきである。自分の経験では、宗教学会の若手の科研の審査員をやったとき、女性が1人しかいなかった。それは所属がなく、研究者番号がないためである。宗教系大学の(宗教研究の分野での)女性教員の割合が少ないのは特に問題である。

井野瀬:教団に働きかける上でもデータ(他との比較)は有効と考えられる。

西村WG委員長:宗教学会に限られる問題ではないが、海外で学位をとった女性研究者は、日本に戻ってくると、国内の研究ネットワークに入ることができない。研究者番号もとれず、就職も難しい。そのような人材を日本に受け入れる場所がないとなると、学問の質という点でもったいないことをしている。学会が学問交流の場になりきっていないことの認識が必要である。

井野瀬:その問題も数値化できれば手の打ちようが出てくる。率先してデータを出し、他学会にも出してもらうという交流はできないか。

井野瀬:宗教学会の会員であることのメリットはあるのか? 西洋史学会は試練に立たされたことがある。現在、ヨーロッパ史では中・東欧研究に勢いがあり、西欧の研究は全体として勢いが減ってきている。そういった10年前とも20年前とも違う「学問の質」を学会がどう反映しており、それを学会に入ってこようとする若手がどうとらえるのか。そこを西洋史学会は議論しなかったため、一時期、学会誌『西洋史学』への投稿が激減し、出版も危ぶまれた。宗教学会にはそのようなことはないのか。
インクルーシブであるために、共存、共感が重要だと考えている。対話の中でデータを上手く入れると効果がある。たとえば文科省の調査によれば、人文社会科学系修士課程から博士課程への進学率は、平成3年に35.1%だったのが平成20年には20.6%になった。3人に一人は博士課程に進学していた状況が、5人に一人になったわけだ。こうした事実の可視化は必要である。
そのように数値化できるデータをもとに、他の学会や学術会議と、こういった意見交換の会合を年に1回は開き、対話することが重要と考える。

山中会長:宗教学会の会長として本日の議論をふりかえるなら、若手支援、男女の共同参画以上の問題を含んでいると思う。目標は学問の質とジェンダーに置くとしても、もう少し広いスタンスをとり、日本の学術の問題を次々と出し、会員一人一人の問題だと示すことが必要である。
宗教学会で教団的背景がない人は全会員の2割くらいではないか。教団文化がそのまま持ち込まれているということでもあり、学問的トレンドの変化とは無縁に研究を行う人もいる。
宗教学会の特殊性や、博士進学率は全体の問題など、私自身も目が開かれたので、理事会での委員会報告に留めず、WGの活動に多様な会員を巻き込むことが課題であろう。

懇親会の様子

日本宗教学会第77回学術大会(大谷大学)におけるパネル発表のご案内

2018年度日本宗教学会第77回学術大会(大谷大学)において、日本宗教学会・宗教研究諸学会連合共催パネルを開催いたします。

パネル題目「宗教研究の振興と学会・学会連合の役割―学術会議との対話―」

日時:2018年9月9日(日)13:15~15:15
場所:大谷大学本部キャンパス慶聞館 K214教室
〒603-8143 京都市北区小山上総町
アクセス:京都市営地下鉄烏丸線 国際会館行「北大路」駅上
詳細は大谷大学のサイトにてご確認ください。
http://www.otani.ac.jp/nab3mq0000004vfa.html

参加方法:本諸学会連合加盟学会の会員の方は、開催日から1週間前までに、本諸学会連合事務局にメール(jfssr20084@gmail.com)でお申し込みいただければ、無料でご参加いただけます。 (それ以外の方は、当日、宗教学会大会受付で参加費1000円をお支払いください。)

内容:
挨拶 岡田 真水(日本宗教研究諸学会連合副委員長・日本学術会議哲学委員会幹事)

発表① 藤原 聖子(日本宗教研究諸学会連合幹事・日本学術会議第一部副部長・東京大学教授)
「宗教学会の状況―他分野学会と比較して―」

発表② 斎藤 明(日本印度学仏教学会元理事長・国際仏教学大学院大学教授)
「インド学仏教学は『社会的要請』にいかに応えるのか」

発表③ 土井 健司(日本宗教研究諸学会連合幹事・日本基督教学会専務理事・関西学院大学教授)
「神学・キリスト教学の現状と将来にむけて」

発表④ 土屋 昌明(日本道教学会理事・専修大学教授)
「日本における道教研究の有効性について」

コメンテータ 井野瀬 久美恵(日本学術会議第23期副会長・甲南大学教授)

要旨

この数年間、政府の科学技術イノベーション戦略の裏で進む、文系諸学や基礎研究の軽視が問題化されている。この状況に対して、個々の大学だけでなく、学会が連携して取り組めることはないだろうか。宗教研究の基盤を維持し、さらなる発展を図るために、関連学会と日本宗教研究諸学会連合は何ができるだろうか。
これまでのところ、「文系の危機」は大学、なかでも国公立大学の文系学部廃止論としてもっぱら議論されている。ところが、他の人文諸学に比べ、宗教研究の特徴の一つは、必ずしも大学ばかりを研究機関とはしておらず、学会の会員にも大学に所属せずに研究している者が少なからず含まれているということである。よって、2015年の文科相による「6.8通知」の受け止め方も、宗教研究関連学会のなかでは一様ではない。大学のポストが先細るなかで、宗教研究の諸学会はオルタナティヴな研究の生き延び方を示しているのか、それとも別の形での梃入れを必要としているのか。
こういった根本的な問題を考察する手がかりとして、本パネルは、日本学術会議第一部(人文・社会科学部門)から2017年に発出された提言「学術の総合的発展をめざして―人文・社会科学からの提言―」http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t242-2.pdf(以下、「2017提言」と表記)への応答という形で進める。
すなわち、各発表者はそれぞれ日本印度学仏教学会、日本基督教学会、日本道教学会、日本宗教学会(日本宗教研究諸学会連合の運営委員会を構成する諸学会)について、
・当学会の宗教研究は、2017提言で掲げられたような社会的要請(狭義の「社会のニーズ」ではなく、「目には見えにくくても、長期的な視野に立って知を継承し、多様性を支え、創造性の基盤を養うという役割を果たす」こと)に応えている/応えることができる
・そのように役割を果たしていることを、対外的にこのように説明・アピールしている
・当学会の宗教研究は、大型の研究資金、設備をこのようなところで必要としている
・当学会は、学会の活性化、研究の振興のためにこのような試みを行っている
・当学会は、若手研究者育成のためにこのような試みを行っている
・当学会は、女性研究者支援のためにこのような試みを行っている
といった、2017提言の主要な論点のうちいくつかに絞って、自らの考えるところと学会の状況について報告する。それを通して、必要性は認識されているが手を打てていない課題に関して、学会間の横の連携や学術会議との連携により取り組むことができる部分を抽出していく。
進め方としては、まず第1発表者の藤原が、パネルの趣旨、2017提言と日本宗教学会の特徴を他分野学会と比較しながら説明した後、
第2発表者の斎藤氏は、日本印度学仏教学会の取り組みと、斎藤氏自身が手がけてきた翻訳に関するプロジェクト(バウッダコーシャ)を一例として、インド学仏教学は「社会的要請」にいかに応えるか、またその際に直面する課題はなにか、について再考する。
第3発表者の土井氏は、日本基督教学会の改革の状況と新しいプロジェクトを紹介した上で、数量化、可視化、結果主義とも言うべきものが力をもつ社会において、神学・キリスト教学という学問の有り様を「説得力」という視点から再検討する。
第4発表者の土屋氏は、中国宗教(とくに道教)研究の社会的必要性について、日本あるいは日本人の立場から研究する有効性(宗教文化史的観点、国際交流的観点など)および普遍的で現代的な観点(環境問題の考え方など)から研究する有効性について論じる。
コメンテータには、2017提言作成において中心的役割を果たされた、日本学術会議前副会長・井野瀬久美恵氏をお招きし、連携の可能性を具体的・現実的に議論する。

 

公開シンポジウム「恐怖を哲学する―フィアー・ホラー・テラー―」開催報告

公開シンポジウム「恐怖を哲学する―フィアー・ホラー・テラー―」開催報告

12月9日(土)に学術会議講堂にて開催された、本諸学会連合共催シンポジウムには、約120名の方にご参加いただきました。例年より若い方が目立ちました。

御礼を申し上げますとともに、当日の発表のレジュメをここに掲載します(発表タイトルをクリックしていただくとpdfファイルが現れます)。シンポ2

報告者
三嶋輝夫(元青山学院大学教授)
「古代ギリシャ哲学、文学における恐れ」

佐藤弘夫(日本学術会議連携会員、東北大学大学院文学研究科教授)
「聖衆から幽霊へ ―闇から現れるものたち―」
(関連資料:パワーポイント

石田美紀(日本学術会議連携会員、新潟大学人文学部准教授)
「幽霊からゾンビへ ―現代ホラー映画の流れ―」

藤原聖子(日本学術会議第一部会員、東京大学大学院人文社会系研究科教授)
「ゾンビからテロリズムへ ―現代「畏れ」・「恐れ」考―」

ディスカッサント
戸田山和久(日本学術会議第一部会員、名古屋大学大学院情報科学研究科教授)

シンポ1当日フロアからいただいた質問に対する、パネリストから後日送られた回答も掲載します。

質問:恐怖は消極的な方向から動機づけするもの、規範的な力だと思う。「信仰心」「道徳感」が持つ規範的な力とはどのように違うのか。
回答:恐怖そのものが規範的なものなのではなく、哲学史的に見れば、ストア派のアパテイア(apatheia)やエピクロス派のアタラクシア(ataraxia)の理想に見られるように、天災や人災あるいは宿命としての死にも動じない境地を獲得すべきだとするのが規範だと考えます。(三嶋)

質問:恐怖についての文化差についてはあまり語られていなかったが、人間に共通しているものだと考えてよいのだろうか。
回答:勿論、文化差・時代差によって多様性は考えられると思いますが、例えば可能性の終焉としての「死」のように、人間としての人間に関わる「恐ろしいこと」を恐れる気持ちは、普遍的なものだと考えます(三嶋)。

質問:夢と来世における聖なるもの、ないし恐怖をもたらすものは、それぞれその表象を異にするのだろうか。それとも、これらが現れるのは夢においてのみなのか。
恐怖感情が解消されるのはどんなときか。また逆に絶望になるのはどんなときなのだろうか。
現代においてオットーは宗教の本質を「鳥肌が立つ」などとは言わないだろう、という指摘は大変興味深かった。現代においては、鳥肌が立つような体験を様々な媒体をもちいて得ることが可能になっている。これが宗教離れに関連しているとも考えられないだろうか。
結局、恐怖はどう定義されるのか。
回答:シンポでも御紹介したプラトン対話篇にあるように、恐怖とは「これから生じる悪いことの予期」だと考えます。アリストテレスによれば、加えて切迫していることが重要だということになります。(三嶋)

質問:今回、「死の恐怖」についての言及はなかったように思う。アリエスの「死の歴史」の議論で一段落しているのかもしれないし、別のテーマとすべきかもしれないが、シンポの冒頭で「死の恐怖は扱わない」という指摘があればと思った。
回答:小生のレジュメI-Bと資料④にあるアリストテレスの言葉を御参照ください。(三嶋)

質問:蛇や神は、生命の危機を感じさせる「もの」であるから、恐怖を感じさせるというのはわかりやすいですが、「何もない毎日」という恐怖、人生に意味などないのではないだろうか、という漠然とした恐怖もあるのではないか。そのfearから逃れるため、映画やバンジージャンプといったhorrorを使う、と言えませんか。
回答:これは「恐怖」というよりも「退屈」(Langweile)もしくは「不安」(Angst)と関係付けられて議論されて来た現象だと思います。小生は不案内ですが、例えばハイデガー『存在と時間』(第一部第一篇第五章第三〇節、第六章第四〇節)『形而上学とは何か』などを読まれることをお薦めします。(三嶋)

質問:「恐怖を哲学する」というテーマであるとすれば、研究者が恐怖を語る(説明する、分析する)ことの意味を各先生にお伺いしたい。特に、文明開化期の知識人が迷信打破の名目で「恐怖を駆逐する」ことを推進したように、恐怖についての学的努力は恐怖を減じていくことになるのかどうか。
回答(三嶋):「学的努力」の意味が不明確ですが、哲学的な努力としては先にも触れたエピクロスの死の無害化の試み(『メノイケウス宛の手紙』I-2)、つまり死と自己意識のスレ違い論などが有名ですが、はたしてどこまで効果があったのか、あるのかは疑問です。他方、素人考えですが、自然科学的知見が恐怖を減ずる効果がある場合もあるように思います。例えばハレー彗星が地球にぶつかるのではないかと恐れる現代人はいないのではないかと思います。
回答(藤原):蛇を怖がる人が、恐怖についての哲学的説明を聞いたからといって、蛇を怖がらなくなるということはありえないですよね。おそらく、ご質問は、「幽霊を怖がる人が、幽霊は実在しないと「科学者」に言われた場合、幽霊を怖がらなくなるかどうか」というケースと、哲学による説明を、同じようなものとしてとらえていらっしゃると思います。つまり、恐怖の対象(蛇・幽霊)が、科学的(合理的)観点から、恐れるに値するものなのかどうかを決めるのが研究者の役割であるというような前提があるようです。(「放射能や地震を“正しく恐れる”」論も、その類ですね。)少なくとも本シンポジウムの登壇者は皆、そこを論じたのではなく、恐れる人間の側に注目し、恐れのメカニズムを説明していましたので、説明の効果も異なります。

質問:副題として「フィアー・ホラー・テラー」とある。報告、パネルディスカッションのなかで、フィアーとホラーの定義については触れましたが、「テロリズム」の語源となっているテラーにかんしても話を聞きたかった。「テラー」という言葉の定義というよりは、ある対立軸をもちいたときに、テラーを他の「恐怖」と差別化できる要素があれば、それについて知りたい。
回答:テラーの対象は現実のもの。また、「恐怖政治」「テロリズム」のように、しばしば「暴力」が絡みます。fear of warだと「戦争が起こるかもしれないと恐れる」こと。terror of warだと「実際にふりかかってきた戦争の脅威」。(藤原)

質問:「恐れ」「畏怖」のレベルとターゲットが「今的」ではない。ブログの炎上、古い前科のネット上の書き込まれ情報が削除されない、できない。小さなミスがマスコミに事故として取り上げられ、社会的非難を浴びせられ、家族全員が住む場所を失った……。そうした「恐怖」が多発し、人生の破滅を招いている方が恐ろしいのではないか。ゾンビやホラーレベルの恐怖ではない。ネット時代での「人を追い詰める」恐怖への対応をどう扱うのかの検討こそが、いま求められている課題ではないか。
回答:今回は長い歴史的なスパンで「恐怖」を考えたために、こうした問題には言及できませんでしたが、決して無視しているわけではありません。まさにいま発生しているネット上での中傷などの問題の深刻さは、それが近代化の未成熟からではなく、現代化と文明化の成熟の果てに生じたことにあります。その解決のためには近現代社会そのものを相対化し、その歪みを適切に照射できるような広い視座が不可欠であり、それには百年・千年単位で蓄積されてきた人文学的な知見が極めて有用であると考えています。ここではその直接の処方箋を示すことはいたしませんが、迂遠なように見えても、今回のような幅広い分野からの議論とその蓄積が、将来必ずや今日的な諸課題解決の糸口になるものと確信しています。(佐藤)

質問:恐怖と驚きの違いは何か。
回答(三嶋):「恐怖」については繰り返しになりますので「驚き」に限定すれば、プラトン、アリストテレスともに、「驚き」こそが哲学の始まりだとしています(プラトン『テアイテトス』155d2-5、アリストテレス『形而上学』982b12-19)。私見によれば、それは「不思議さ」を心の底から実感することだと思われます。そのようなものとして、それは忌避と回避つまり世界から後ずさりすることを呼び起こすものではなく、見慣れた世界をあたかも初めて目にするかのように見つめ直すよう促す体験だと思います。
回答(藤原):たとえば「蛇を恐れる」について、3つの段階を区別してはどうでしょう。
①蛇が突然出てきたので、驚いて「キャー」。
②それが毒蛇だとわかり、かまれたら死んでしまう、とこわがる。
③まわりに棒も何もなく、退治する手段がないという、手の打ちようのなさを認知することからくる怖さ。

質問:中世における異界が、近世においてどんどん失われていく契機はどんなものだったのか。なぜ、失われていくことになったのか。
回答:直接的な契機としては、計測技術の発達と科学的な知見の増大によって、この世界において論理的かつ合理的に説明できる領域が広がり、神の仕業として認識されてきた部分が侵食され、縮小していったことにあるように思われます。古代や中世においては豊かな実りをもたらす主体は神でした。そのため、神に対する豊作祈願と収穫への感謝が、人々のなすべき最重要の責務と考えられていました。近世社会になると数多くの農書が著され、農具・肥料の改善や品種改良も進められて、神への祈願は、人間のなすべき努力にプラスアルファとして付加される副次的な位置へと降格させられるのです。(佐藤)

質問:古代の人々にとっての「闇」のとらえ方を詳しく説明していただきたい。暗い「闇」に対する恐れに加え、明るい部分に対する恐れもあると思うが、もしあるとしたら、それはどのような歴史的展開を遂げたのか。
回答:古代は基本的に私たちが認識できるこの世界内部に、神仏から死者、聖なる存在から邪悪な存在まで、あらゆるものが共存する時代であったと考えています。そのため、人間以外の存在の支配領域が広がり、その活動が活発化する夜は、聖なるものが降臨する世界であると同時に、恐ろしい化け物が君臨する世界でもありました。夜に出歩くことは通常の人間にとってタブーであり、特別の宗教的な訓練を受けた者以外は扉を閉ざして家の中にこもるのが当然と考えられていました。しかし、逆の視点からみれば、イザナミが腐敗した身体を見られることを忌避したように、闇を支配する存在にとっては、光はとてつもない恐怖だったのです。(佐藤)

質問:不可知なモノに対する恐れを、ギリシャ哲学はどのようにとらえているのか。
回答:ギリシャ哲学における「不可知なモノ」に対する恐れについての論述は思い当たらないのですが、悲劇では、<何か>悪いことが起こるかも知れないとの予感をコロス(合唱隊)が口にするケースは少なくないと思います。例えば、シンポでも言及したソフォクレスの『アンティゴネー』中の有名なコロスの歌は「恐ろしきものはあまたあれど、人よりもなお恐ろしきはなし」で始まり、「人はまた、思いも及ばぬ賢さの工夫の才を持ちながら、時には悪に、時には善に歩み寄る・・・」(岩波文庫、中務哲郎訳)で終わりますが、これは人間の倫理的不安定性と不可測性、その得体の知れなさに対する恐れもしくが危惧を表しているように思います。(三嶋)

質問:藤原先生の報告における①の「ヌミノーゼ感情」と「恐れの情動」の話と、②の「過激」概念の話のつながりがよくわからなかった。(あるいは、つながりのない話を2つされたのかもしれないが)
回答:①から②に変わるところではつなげていませんが、最後に「テロリズムのホラー化」としてつなげました。(文章化したレジュメをアップしますのでご確認ください)(藤原)

質問:90年代の日本のホラー映画ともなると、幽霊は過度に身体性を獲得しているようにみえる。おそらく貞子らはすでにゾンビ映画の影響を受けているように思われるが、映画史的・直接的影響の文脈ではなく、哲学的文脈で貞子らをとらえるなら、背景ともなる日本の90年代の恐怖のあり様はどうだったのか。貞子も走らないのに、怒っているようにみえるが。
回答:Jホラーが日本映画の最前線となった90年代後半は、1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件、1997年の神戸連続児童殺傷事件と、社会と共同体を根底から揺るがし、個々人の日常を崩壊させる事象・事件が立て続けに起こりました。「失われた10年」とも呼ばれるこの時代はJホラーの時代にも重なるのですが、現在のわたしたちは喪失が10年で終わることも、軽減されることもなく、より深刻なものになっていることを知っています。と同時に、この喪失を機に生み出される出来事に怒ることしかできないのではないかという考えがあり、実際そうした怒りが集団的に共有されることで、なんらかの力――けっして褒められないやり方であっても――が行使されうることも知っています(ネットにおける炎上事件などはその一例でしょう)。90年代後半の社会不安に内包されていた怒りは、10年のあいだに顕在化したともいえるのではないでしょうか。
2000年代から2010年代にかけての怒りの顕在化という観点から貞子を考えてみれば、その怒りが個人の、それも他者として観客に呈示される存在の怒りであったことは、重要であると思われます。中田秀夫監督『リング』(1997)の観客はみな、貞子が社会と親族から受けたむごい仕打ちに怒り、復讐する様を目の当たりにして、その強度におののきました。しかし、彼女の怒りに共鳴したり、共感したりすることは、極めてまれであったと思います(のちのシリーズ化作品における貞子については必ずしもそうではないかもしれませんが)。『リング』にみられる貞子の憤怒は彼女だけのものです。怒りという点では、貞子は走るゾンビと繋がるにしても、観客による怒りの共有という点では異なる位相に存在すると考えています。(石田)

質問:日本のホラー映画とアメリカのホラー映画は少し「毛色が違う」という友人がいた。彼は、日本のホラー映画は「どうしようもなくコワい。解決策のない恐怖」であるのに対して、アメリカのホラー映画は「ビックリ系で少しグロテスクである」というようなことを言っていました。日米ホラー映画の差について、どう思うか。
回答:たしかに、ハリウッド映画におけるホラーは日本映画におけるホラーとは質的に異なるものが多いです。その理由のひとつとして、とても単純なことですが、「わかりやすさ」が挙げられます。ハリウッド映画は、世界市場にむけて製作されているため、様々な社会的・文化的背景をもった観客を想定してきました。そのため、確実に観客を怖がらせるだろう視聴覚的表現が優先的に選択されてきたのです(音響演出に注目すると、日米の違いはいっそう際立ちます)。それに対し、日本というローカル市場向けの映画である日本製ホラー映画は、ほかでもなく日本社会を知る観客が「どうしようもなく怖い」と思えるポイントを突いています。お岩や累のような古典怪談の女性幽霊、さらにはJホラーの貞子や 伽椰子が体現する恐怖は、日本社会の裏面ときってもきりはなせないものです。とはいっても、M・ナイト・シャマラン監督『シックス・センス』(1999)やアレハンドロ・アメナーバル監督『アザーズ』(2001)には、観客の胸に染みわたる哀切に満ちたハリウッド製(あるいはハリウッド資本が入った)ホラー映画も存在します。グローバル化を極める現代のハリウッド・ホラー映画がみせる多様性には、おそらくJホラー等の日本映画も少なからずの影響を与えていると考えます。(石田)

質問:今回のシンポジウムのテーマの副題は「フィアー・ホラー・テラー」だったが、日本語にも同音異義語で「恐れ」「怖れ」「畏れ」がある。この区別の仕方は対応するものなのか。あるいは、英語の区別の仕方と日本語の区別の仕方は違うのか。
回答:「恐」と「怖」の違いについて、ネットでは、前者は客観、後者は主観という説がよく出てくるようですが、語源(漢字の意味)の違いはこれとは異なります。
「恐」は、心の中を突き抜けて穴が開いたような、うつろな感じがすること(つまり、びっくりして驚くという感情に近いおそれ)
「怖」は、心が布のように薄い状態を表すので、ひやひやする感じ(つまり、持続的な、不安に近いおそれ)
「畏」は、威圧を感じて心がすくむ感じ。(石田)

質問:あの世のリアリティと、それを媒介する政治権力と、力を持った宗教団体の変遷およびその教義について、何かご存知であれば伺いたい。
回答:宗教は、しばしば世俗の権力に対抗する理念を人々に提供しました。一般的にいって、俗権との緊張関係が高まると、現世の権力や権威を相対化すべく、神の超越性やあの世のリアリティが強調される傾向にありました。織田信長ら天下人と真っ向から対峙した一向一揆は、「進めば極楽 退けば地獄」のスローガンを掲げたことが知られています。日蓮宗不受不施派は、この世界の本源的支配者は世俗の君主ではなく彼岸世界の釈尊であるとする「釈尊御領観」を拠り所として、天下人の圧迫に対抗して宗教的信念を貫こうとしました。彼岸のリアリティの高揚と縮小は終末論や末法思想の変遷にも見ることができると思いますが、長くなりますので今回は指摘するだけにさせていただきます。(佐藤)

(ご質問と回答につきましては今後も追加の可能性がございます)