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公開シンポジウム「恐怖を哲学する―フィアー・ホラー・テラー―」開催報告

公開シンポジウム「恐怖を哲学する―フィアー・ホラー・テラー―」開催報告

12月9日(土)に学術会議講堂にて開催された、本諸学会連合共催シンポジウムには、約120名の方にご参加いただきました。例年より若い方が目立ちました。

御礼を申し上げますとともに、当日の発表のレジュメをここに掲載します(発表タイトルをクリックしていただくとpdfファイルが現れます)。シンポ2

報告者
三嶋輝夫(元青山学院大学教授)
「古代ギリシャ哲学、文学における恐れ」

佐藤弘夫(日本学術会議連携会員、東北大学大学院文学研究科教授)
「聖衆から幽霊へ ―闇から現れるものたち―」
(関連資料:パワーポイント

石田美紀(日本学術会議連携会員、新潟大学人文学部准教授)
「幽霊からゾンビへ ―現代ホラー映画の流れ―」

藤原聖子(日本学術会議第一部会員、東京大学大学院人文社会系研究科教授)
「ゾンビからテロリズムへ ―現代「畏れ」・「恐れ」考―」

ディスカッサント
戸田山和久(日本学術会議第一部会員、名古屋大学大学院情報科学研究科教授)

シンポ1当日フロアからいただいた質問に対する、パネリストから後日送られた回答も掲載します。

質問:恐怖は消極的な方向から動機づけするもの、規範的な力だと思う。「信仰心」「道徳感」が持つ規範的な力とはどのように違うのか。
回答:恐怖そのものが規範的なものなのではなく、哲学史的に見れば、ストア派のアパテイア(apatheia)やエピクロス派のアタラクシア(ataraxia)の理想に見られるように、天災や人災あるいは宿命としての死にも動じない境地を獲得すべきだとするのが規範だと考えます。(三嶋)

質問:恐怖についての文化差についてはあまり語られていなかったが、人間に共通しているものだと考えてよいのだろうか。
回答:勿論、文化差・時代差によって多様性は考えられると思いますが、例えば可能性の終焉としての「死」のように、人間としての人間に関わる「恐ろしいこと」を恐れる気持ちは、普遍的なものだと考えます(三嶋)。

質問:夢と来世における聖なるもの、ないし恐怖をもたらすものは、それぞれその表象を異にするのだろうか。それとも、これらが現れるのは夢においてのみなのか。
恐怖感情が解消されるのはどんなときか。また逆に絶望になるのはどんなときなのだろうか。
現代においてオットーは宗教の本質を「鳥肌が立つ」などとは言わないだろう、という指摘は大変興味深かった。現代においては、鳥肌が立つような体験を様々な媒体をもちいて得ることが可能になっている。これが宗教離れに関連しているとも考えられないだろうか。
結局、恐怖はどう定義されるのか。
回答:シンポでも御紹介したプラトン対話篇にあるように、恐怖とは「これから生じる悪いことの予期」だと考えます。アリストテレスによれば、加えて切迫していることが重要だということになります。(三嶋)

質問:今回、「死の恐怖」についての言及はなかったように思う。アリエスの「死の歴史」の議論で一段落しているのかもしれないし、別のテーマとすべきかもしれないが、シンポの冒頭で「死の恐怖は扱わない」という指摘があればと思った。
回答:小生のレジュメI-Bと資料④にあるアリストテレスの言葉を御参照ください。(三嶋)

質問:蛇や神は、生命の危機を感じさせる「もの」であるから、恐怖を感じさせるというのはわかりやすいですが、「何もない毎日」という恐怖、人生に意味などないのではないだろうか、という漠然とした恐怖もあるのではないか。そのfearから逃れるため、映画やバンジージャンプといったhorrorを使う、と言えませんか。
回答:これは「恐怖」というよりも「退屈」(Langweile)もしくは「不安」(Angst)と関係付けられて議論されて来た現象だと思います。小生は不案内ですが、例えばハイデガー『存在と時間』(第一部第一篇第五章第三〇節、第六章第四〇節)『形而上学とは何か』などを読まれることをお薦めします。(三嶋)

質問:「恐怖を哲学する」というテーマであるとすれば、研究者が恐怖を語る(説明する、分析する)ことの意味を各先生にお伺いしたい。特に、文明開化期の知識人が迷信打破の名目で「恐怖を駆逐する」ことを推進したように、恐怖についての学的努力は恐怖を減じていくことになるのかどうか。
回答(三嶋):「学的努力」の意味が不明確ですが、哲学的な努力としては先にも触れたエピクロスの死の無害化の試み(『メノイケウス宛の手紙』I-2)、つまり死と自己意識のスレ違い論などが有名ですが、はたしてどこまで効果があったのか、あるのかは疑問です。他方、素人考えですが、自然科学的知見が恐怖を減ずる効果がある場合もあるように思います。例えばハレー彗星が地球にぶつかるのではないかと恐れる現代人はいないのではないかと思います。
回答(藤原):蛇を怖がる人が、恐怖についての哲学的説明を聞いたからといって、蛇を怖がらなくなるということはありえないですよね。おそらく、ご質問は、「幽霊を怖がる人が、幽霊は実在しないと「科学者」に言われた場合、幽霊を怖がらなくなるかどうか」というケースと、哲学による説明を、同じようなものとしてとらえていらっしゃると思います。つまり、恐怖の対象(蛇・幽霊)が、科学的(合理的)観点から、恐れるに値するものなのかどうかを決めるのが研究者の役割であるというような前提があるようです。(「放射能や地震を“正しく恐れる”」論も、その類ですね。)少なくとも本シンポジウムの登壇者は皆、そこを論じたのではなく、恐れる人間の側に注目し、恐れのメカニズムを説明していましたので、説明の効果も異なります。

質問:副題として「フィアー・ホラー・テラー」とある。報告、パネルディスカッションのなかで、フィアーとホラーの定義については触れましたが、「テロリズム」の語源となっているテラーにかんしても話を聞きたかった。「テラー」という言葉の定義というよりは、ある対立軸をもちいたときに、テラーを他の「恐怖」と差別化できる要素があれば、それについて知りたい。
回答:テラーの対象は現実のもの。また、「恐怖政治」「テロリズム」のように、しばしば「暴力」が絡みます。fear of warだと「戦争が起こるかもしれないと恐れる」こと。terror of warだと「実際にふりかかってきた戦争の脅威」。(藤原)

質問:「恐れ」「畏怖」のレベルとターゲットが「今的」ではない。ブログの炎上、古い前科のネット上の書き込まれ情報が削除されない、できない。小さなミスがマスコミに事故として取り上げられ、社会的非難を浴びせられ、家族全員が住む場所を失った……。そうした「恐怖」が多発し、人生の破滅を招いている方が恐ろしいのではないか。ゾンビやホラーレベルの恐怖ではない。ネット時代での「人を追い詰める」恐怖への対応をどう扱うのかの検討こそが、いま求められている課題ではないか。
回答:今回は長い歴史的なスパンで「恐怖」を考えたために、こうした問題には言及できませんでしたが、決して無視しているわけではありません。まさにいま発生しているネット上での中傷などの問題の深刻さは、それが近代化の未成熟からではなく、現代化と文明化の成熟の果てに生じたことにあります。その解決のためには近現代社会そのものを相対化し、その歪みを適切に照射できるような広い視座が不可欠であり、それには百年・千年単位で蓄積されてきた人文学的な知見が極めて有用であると考えています。ここではその直接の処方箋を示すことはいたしませんが、迂遠なように見えても、今回のような幅広い分野からの議論とその蓄積が、将来必ずや今日的な諸課題解決の糸口になるものと確信しています。(佐藤)

質問:恐怖と驚きの違いは何か。
回答(三嶋):「恐怖」については繰り返しになりますので「驚き」に限定すれば、プラトン、アリストテレスともに、「驚き」こそが哲学の始まりだとしています(プラトン『テアイテトス』155d2-5、アリストテレス『形而上学』982b12-19)。私見によれば、それは「不思議さ」を心の底から実感することだと思われます。そのようなものとして、それは忌避と回避つまり世界から後ずさりすることを呼び起こすものではなく、見慣れた世界をあたかも初めて目にするかのように見つめ直すよう促す体験だと思います。
回答(藤原):たとえば「蛇を恐れる」について、3つの段階を区別してはどうでしょう。
①蛇が突然出てきたので、驚いて「キャー」。
②それが毒蛇だとわかり、かまれたら死んでしまう、とこわがる。
③まわりに棒も何もなく、退治する手段がないという、手の打ちようのなさを認知することからくる怖さ。

質問:中世における異界が、近世においてどんどん失われていく契機はどんなものだったのか。なぜ、失われていくことになったのか。
回答:直接的な契機としては、計測技術の発達と科学的な知見の増大によって、この世界において論理的かつ合理的に説明できる領域が広がり、神の仕業として認識されてきた部分が侵食され、縮小していったことにあるように思われます。古代や中世においては豊かな実りをもたらす主体は神でした。そのため、神に対する豊作祈願と収穫への感謝が、人々のなすべき最重要の責務と考えられていました。近世社会になると数多くの農書が著され、農具・肥料の改善や品種改良も進められて、神への祈願は、人間のなすべき努力にプラスアルファとして付加される副次的な位置へと降格させられるのです。(佐藤)

質問:古代の人々にとっての「闇」のとらえ方を詳しく説明していただきたい。暗い「闇」に対する恐れに加え、明るい部分に対する恐れもあると思うが、もしあるとしたら、それはどのような歴史的展開を遂げたのか。
回答:古代は基本的に私たちが認識できるこの世界内部に、神仏から死者、聖なる存在から邪悪な存在まで、あらゆるものが共存する時代であったと考えています。そのため、人間以外の存在の支配領域が広がり、その活動が活発化する夜は、聖なるものが降臨する世界であると同時に、恐ろしい化け物が君臨する世界でもありました。夜に出歩くことは通常の人間にとってタブーであり、特別の宗教的な訓練を受けた者以外は扉を閉ざして家の中にこもるのが当然と考えられていました。しかし、逆の視点からみれば、イザナミが腐敗した身体を見られることを忌避したように、闇を支配する存在にとっては、光はとてつもない恐怖だったのです。(佐藤)

質問:不可知なモノに対する恐れを、ギリシャ哲学はどのようにとらえているのか。
回答:ギリシャ哲学における「不可知なモノ」に対する恐れについての論述は思い当たらないのですが、悲劇では、<何か>悪いことが起こるかも知れないとの予感をコロス(合唱隊)が口にするケースは少なくないと思います。例えば、シンポでも言及したソフォクレスの『アンティゴネー』中の有名なコロスの歌は「恐ろしきものはあまたあれど、人よりもなお恐ろしきはなし」で始まり、「人はまた、思いも及ばぬ賢さの工夫の才を持ちながら、時には悪に、時には善に歩み寄る・・・」(岩波文庫、中務哲郎訳)で終わりますが、これは人間の倫理的不安定性と不可測性、その得体の知れなさに対する恐れもしくが危惧を表しているように思います。(三嶋)

質問:藤原先生の報告における①の「ヌミノーゼ感情」と「恐れの情動」の話と、②の「過激」概念の話のつながりがよくわからなかった。(あるいは、つながりのない話を2つされたのかもしれないが)
回答:①から②に変わるところではつなげていませんが、最後に「テロリズムのホラー化」としてつなげました。(文章化したレジュメをアップしますのでご確認ください)(藤原)

質問:90年代の日本のホラー映画ともなると、幽霊は過度に身体性を獲得しているようにみえる。おそらく貞子らはすでにゾンビ映画の影響を受けているように思われるが、映画史的・直接的影響の文脈ではなく、哲学的文脈で貞子らをとらえるなら、背景ともなる日本の90年代の恐怖のあり様はどうだったのか。貞子も走らないのに、怒っているようにみえるが。
回答:Jホラーが日本映画の最前線となった90年代後半は、1995年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件、1997年の神戸連続児童殺傷事件と、社会と共同体を根底から揺るがし、個々人の日常を崩壊させる事象・事件が立て続けに起こりました。「失われた10年」とも呼ばれるこの時代はJホラーの時代にも重なるのですが、現在のわたしたちは喪失が10年で終わることも、軽減されることもなく、より深刻なものになっていることを知っています。と同時に、この喪失を機に生み出される出来事に怒ることしかできないのではないかという考えがあり、実際そうした怒りが集団的に共有されることで、なんらかの力――けっして褒められないやり方であっても――が行使されうることも知っています(ネットにおける炎上事件などはその一例でしょう)。90年代後半の社会不安に内包されていた怒りは、10年のあいだに顕在化したともいえるのではないでしょうか。
2000年代から2010年代にかけての怒りの顕在化という観点から貞子を考えてみれば、その怒りが個人の、それも他者として観客に呈示される存在の怒りであったことは、重要であると思われます。中田秀夫監督『リング』(1997)の観客はみな、貞子が社会と親族から受けたむごい仕打ちに怒り、復讐する様を目の当たりにして、その強度におののきました。しかし、彼女の怒りに共鳴したり、共感したりすることは、極めてまれであったと思います(のちのシリーズ化作品における貞子については必ずしもそうではないかもしれませんが)。『リング』にみられる貞子の憤怒は彼女だけのものです。怒りという点では、貞子は走るゾンビと繋がるにしても、観客による怒りの共有という点では異なる位相に存在すると考えています。(石田)

質問:日本のホラー映画とアメリカのホラー映画は少し「毛色が違う」という友人がいた。彼は、日本のホラー映画は「どうしようもなくコワい。解決策のない恐怖」であるのに対して、アメリカのホラー映画は「ビックリ系で少しグロテスクである」というようなことを言っていました。日米ホラー映画の差について、どう思うか。
回答:たしかに、ハリウッド映画におけるホラーは日本映画におけるホラーとは質的に異なるものが多いです。その理由のひとつとして、とても単純なことですが、「わかりやすさ」が挙げられます。ハリウッド映画は、世界市場にむけて製作されているため、様々な社会的・文化的背景をもった観客を想定してきました。そのため、確実に観客を怖がらせるだろう視聴覚的表現が優先的に選択されてきたのです(音響演出に注目すると、日米の違いはいっそう際立ちます)。それに対し、日本というローカル市場向けの映画である日本製ホラー映画は、ほかでもなく日本社会を知る観客が「どうしようもなく怖い」と思えるポイントを突いています。お岩や累のような古典怪談の女性幽霊、さらにはJホラーの貞子や 伽椰子が体現する恐怖は、日本社会の裏面ときってもきりはなせないものです。とはいっても、M・ナイト・シャマラン監督『シックス・センス』(1999)やアレハンドロ・アメナーバル監督『アザーズ』(2001)には、観客の胸に染みわたる哀切に満ちたハリウッド製(あるいはハリウッド資本が入った)ホラー映画も存在します。グローバル化を極める現代のハリウッド・ホラー映画がみせる多様性には、おそらくJホラー等の日本映画も少なからずの影響を与えていると考えます。(石田)

質問:今回のシンポジウムのテーマの副題は「フィアー・ホラー・テラー」だったが、日本語にも同音異義語で「恐れ」「怖れ」「畏れ」がある。この区別の仕方は対応するものなのか。あるいは、英語の区別の仕方と日本語の区別の仕方は違うのか。
回答:「恐」と「怖」の違いについて、ネットでは、前者は客観、後者は主観という説がよく出てくるようですが、語源(漢字の意味)の違いはこれとは異なります。
「恐」は、心の中を突き抜けて穴が開いたような、うつろな感じがすること(つまり、びっくりして驚くという感情に近いおそれ)
「怖」は、心が布のように薄い状態を表すので、ひやひやする感じ(つまり、持続的な、不安に近いおそれ)
「畏」は、威圧を感じて心がすくむ感じ。(石田)

質問:あの世のリアリティと、それを媒介する政治権力と、力を持った宗教団体の変遷およびその教義について、何かご存知であれば伺いたい。
回答:宗教は、しばしば世俗の権力に対抗する理念を人々に提供しました。一般的にいって、俗権との緊張関係が高まると、現世の権力や権威を相対化すべく、神の超越性やあの世のリアリティが強調される傾向にありました。織田信長ら天下人と真っ向から対峙した一向一揆は、「進めば極楽 退けば地獄」のスローガンを掲げたことが知られています。日蓮宗不受不施派は、この世界の本源的支配者は世俗の君主ではなく彼岸世界の釈尊であるとする「釈尊御領観」を拠り所として、天下人の圧迫に対抗して宗教的信念を貫こうとしました。彼岸のリアリティの高揚と縮小は終末論や末法思想の変遷にも見ることができると思いますが、長くなりますので今回は指摘するだけにさせていただきます。(佐藤)

(ご質問と回答につきましては今後も追加の可能性がございます)

公開シンポジウム「恐怖を哲学する―フィアー・ホラー・テラー―」

公開シンポジウム「恐怖を哲学する―フィアー・ホラー・テラー―」

主 催:日本学術会議哲学委員会
共 催:日本哲学系諸学会連合、日本宗教研究諸学会連合

日 時:平成29年12月9日(土)13:30~17:00

場 所:日本学術会議講堂
趣旨:
恐怖という情動/感情は、これまで哲学の主題になることが少なかったかもしれない。それは、笑い、絶望、不安といった情動に比べて、恐怖はどこか人間的ニュアンスに欠けた、原始的なものとみなされているからではないか。たしかに、恐怖を感じ、それによって動かされるのは人間だけではない。他の動物も、敵に襲われると恐怖の表情を浮かべて叫び声をあげ、逃げたり隠れたりする。おそらく、動物は進化の過程で外敵から身を守るために恐怖という情動を身につけたのだろう。
人間も、こうした古くからの恐怖のシステムを使って生きている。しかし、人間は高度な表象能力も身につけたために、おそらく他の動物にはできないことができるようになった。それは、「今その場にないものを恐れる」ということである。動物にも見られる原始的な仕組みを使って、動物には決して恐れることのできないことがらを恐れることができる。これはとても興味深い人間的現象である。この能力のおかげで、一方で、人間は古来、連綿と続く娯楽のジャンル、「ホラー」と呼ばれるものを手に入れた。他方で、この能力があるおかげで、人々を操作し支配する新たなやり方が生まれた。恐怖によるコントロールである。「テロリストが来る(かもしれない)」「◯◯人が水に毒をまぜた(かもしれない)」。今そこにないものへの恐れを巧みに煽ることで、人々は容易く操作され支配に屈し、異文化間の相互承認はストップする。
このように、動物と共有しているのに、動物にはない楽しみと悲惨さをわれわれにもたらす恐怖は、興味深いと同時にきわめて重要かつアクチュアルな思想的主題である。本シンポジウムでは、われわれに深く根ざした恐怖という情動の本性を明らかにし、「現実の方がよっぽどホラーだ」と言いたくなる現代社会においてそれとどのように対峙していけば良いのかを考える。

司会
岡田真美子(日本学術会議第一部会員、中村元記念館東洋思想文化研究所研究員)

報告者
三嶋輝夫(元青山学院大学教授)
「古代ギリシャ哲学、文学における恐れ」

佐藤弘夫(日本学術会議連携会員、東北大学大学院文学研究科教授)
「聖衆から幽霊へ ―闇から現れるものたち―」

石田美紀(日本学術会議連携会員、新潟大学人文学部准教授)
「幽霊からゾンビへ ―現代ホラー映画の流れ―」

藤原聖子(日本学術会議第一部会員、東京大学大学院人文社会系研究科教授)
「ゾンビからテロリズムへ ―現代「畏れ」・「恐れ」考―」

ディスカッサント
戸田山和久(日本学術会議第一部会員、名古屋大学大学院情報科学研究科教授)

日本学術会議哲学委員会主催シンポジウム2017

特別セッション「大学制度から近代日本の宗教研究を再考する」開催報告

特別セッション「大学制度から近代日本の宗教研究を再考する」Reconsidering Religious Studies in Modern Japan in Light of the Institutionalization of Universities開催報告

日本宗教学会年次大会中、9月16日(土)に本諸学会連合共催パネルを開催いたしました。

御礼を申し上げますとともに、当日の発表・コメントのダイジェスト版(レジュメ)をここに掲載します(発表タイトルをクリックしていただくとpdfファイルが現れます)。

発表

江島尚俊(田園調布学園大学助教)

「学問制度の近代化と宗教研究―国家による制度構築の視点から」Academic Modernization without Secularization: The State’s Management of Religious Studies and Its Historical Consequences

小柳敦史(北海学園大学准教授)

「帝国大学における「神学」―波多野精一による基督教学の構想—“Theology” for an Imperial University?: Seiichi Hatano’s Plan for Christian Studies at Kyoto Imperial University

ヴィクトリア・モントローズ(南カリフォルニア大学大学院博士課程)

「明治時代の仏教系高等教育機関における僧侶養成課程―比較分析―」Clerical Curricula in Meiji Period Buddhist Higher Education Institutions: A Comparative Analysis

松野智章(東洋大学非常勤講師)

「哲学化する宗教思想―学問的に宗教はどのように翻訳されたか?―」Philosophizing Religious Thought: How Religious Concepts Were Translated in Pursuit of Academic Recognition

コメンテーター

増澤知子(ミシガン大学教授)

コメント

司会

藤原聖子(東京大、日本学術会議哲学委員会幹事)

パネルの主旨とまとめ

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日本宗教学会第76回学術大会特別セッション「大学制度から近代日本の宗教研究を再考する」

2017年9月15-17日に開催される日本宗教学会第76回学術大会(会場:東京大学本郷キャンパス)におきまして、日本宗教研究諸学会連合が特別セッションを共催いたします。

特別セッション
「大学制度から近代日本の宗教研究を再考する Reconsidering Religious Studies in Modern Japan in Light of the Institutionalization of Universities」

アメリカ・ミシガン大学の増澤知子先生をコメンテータにお招きし、『近代日本の大学と宗教』(2014年)『戦時日本の大学と宗教』(2017年)を出版した若手研究者等による特別セッションを行います。
発表と司会・ディスカッションは英語で行われますが、日本語のレジュメ、部分通訳が用意されます。
There will be a special session on the history of religious studies in Japan on Sept. 16, during the annual meeting of the Japanese Association for Religious Studies.

※宗教研究諸学会連合加盟学会の会員の皆様は、このセッションには大会参加費無料で聴講していただけます。当日、受付にてお申込みください。
なお、15日(金)には14時半より、増澤先生を中心とした公開シンポジウム「歴史のなかの大学と宗教研究」を開催します。こちらも参加費無料、事前申し込み不要です。
詳細は日本宗教学会第76回学術大会の公式ホームページにて後日公開予定のプログラムをご覧ください。
(公式ホームページのリンクは以下から)
http://jpars.org/annual_conference/

セッションの詳細は下記よりご確認ください。
日時・開催場所:
2017年9月16日(土)14:00-16:00
東京大学本郷キャンパス法文2号館1階113教室

パネリスト:
コメンテータ
増澤知子(ミシガン大学教授)
東京都生まれ。国際基督教大学卒業(1975年)後、イェール大学で修士号(宗教哲学、1979年)、カリフォルニア大学サンタバーバラ校で博士号(宗教学、1985年)を取得。グッゲンハイム財団フェロー、プリンストン高等研究所会員。
ヨーロッパ思想史を専門とし、なかでも近代の宗教言説、人文科学の歴史に関心がある。最新の研究成果として、19世紀の大学改革運動において宗教と世俗の領域がどのように立ち上がったかを論じたモノグラフを刊行予定(Making of the Academic Secular: the University Reform Movements in the Nineteenth Century)。著書に、In Search of Dreamtime: the Quest for the Origin of Religion, 1993(『夢の時を求めて』中村圭志訳、玉川大学出版部)、The Invention of World Religions: Or, How European Universalism Was Preserved in the Language of Pluralism, 2005(『世界宗教の発明』中村圭志訳、みすず書房)。他に、近年の論文として、“The Bible as Literature?—Note on a Litigious Ferment of the Concept,” 2013、“Striating Difference: from ‘Ceremonies and Customs’ to World Religions,” 2014。

司会
藤原聖子(東京大学教授)

発表者1
江島尚俊(田園調布学園大学助教)
発表題目「学問制度の近代化と宗教研究―国家による制度構築の視点から―
Academic Modernization without Secularization: The State’s Management of Religious Studies and Its Historical Consequences」

発表者2
小柳敦史(北海学園大学准教授)
発表題目「帝国大学における「神学」―波多野精一による基督教学の構想―
“Theology” for an Imperial University?: Seiichi Hatano’s Plan for Christian Studies at Kyoto Imperial University」

発表者3
ヴィクトリア・モントローズ(南カリフォルニア大学大学院博士課程)
発表題目「明治時代の仏教系高等教育機関における僧侶養成課程―比較分析―
Clerical Curricula in Meiji Period Buddhist Higher Education Institutions: A Comparative Analysis」

発表者4
松野智章(東洋大学非常勤講師)
発表題目「哲学化する宗教思想―学問的に宗教はどのように翻訳されたか?―
Philosophizing Religious Thought: How Religious Concepts Were Translated in Pursuit of Academic Recognition」